<< 求道の履歴書 1982〜 Jan.2000 >>



1982年秋

〜全てはここから始まった〜
『石田の顔』 学祭で戦慄のデビュー!


 『石田の顔』とは、某K大学2回生であった馬場、内藤、櫨山が結成したトリオバンドである。あるバンド(ここではFNとしておく)にいた内藤及び櫨山と、別のバンド(ここではKBCとしておく)にいたもののいわゆる求道系人物として名を馳せていた馬場とが学祭のセッションバンドで、お互いのバンドでは歓迎されない求道色の濃い楽曲を演奏した。
ちなみに、内藤・櫨山が在籍していたバンドもトリオであり、石田の顔で取り上げた曲もやろうと思えば自分たちの本来のバンドで演奏することも可能であったのだが、敢えて違うバンドで演奏するところにこの2人の何か満たされぬ思いを見るようである。

 こうした曰く付きで結成された『石田の顔』は、当時学内バンドの登竜門とされていた「社学ステージ」に登場した。楽曲としては、クリーム、GFR、WHO等のコピーであり、当然のことながら一般受けするわけはなく、義理で観に来てくれた知人連中からやんやの罵声を浴びた。
なお、このステージ直前、馬場はグレコの「ブギー」号を購入しており、これがお披露目ライブであったのだが、ストラップの留めかたが甘かったためか、いきなり新品のギターを落としてしまうというハプニングに見舞われた。この時、馬場の頭には

「これでオレのギタリスト人生も終わったか・・」

という思いがよぎったが、幸か不幸かブギー号は頑丈に出来ており、大事には至らなかった。爾来、重量バランスをとるためか、かのギターには「モノリス」と称される謎の物体が装着されている。

 こうして華麗とは言い難いデビューを飾った烏合の衆三羽烏であったが、周りの冷ややかな反応をよそに、当の3人はこのステージに

「これこそがオレたちのやりたい音楽だ!」

という確かな手応えを感じていた。それは普通の人からみれば、勘違い或いは自己満足以外の何ものでもなかったわけだが、彼らにとっては確信或いは天啓といっていい何かであった。
 ただ、さすがの彼らもそこから約20年近い年月を経て、再び『求道's』という具体的な形をとることは予想できなかった。とにもかくにも、このバンドが『求道's』の原点となっているのである。





1983年秋

〜渡辺もまた求道の民であった  怪鳥末崎との出会い〜
『田宮次郎's』 石田の顔を上回る衝撃的なデビュー!


 前年秋の学祭で屈辱的ともいえるデビューを飾った3人であったが、本人たちは懲りもせず、学祭シーズンが近づくにつれ、またしてもテンポラリバンドを組もうと目論んでいた。さらに、この年にはオフコースなどのコピーなどをやって女子大生に人気を博していたバンド(ここではWJとしておく)に在籍していた渡辺も、とうとう求道民であることが発覚し、彼を加えることが決定していた。
 この年は無謀にもLED ZEPPELINの曲に挑戦してみようと考えていた彼らであったが、さすがにボーカルがおらず、この計画も挫折しかかっていた。しかし、そこに忽然と現れたのが当時1回生であったZEPフリーク末崎である。

「まあ、ツェッペリンならオレに任せてください」

と豪語する末崎であったが、3回生となっていた残り4人は、大人の判断として果たして日本人にロバート・プラントが唄えるのか?と、いささか疑問を抱いていた。
しかし、最初のスタジオでその懸念は見事に払拭された。音域やテクニックといったことはともかく、その圧倒的なパワーはまさに怪鳥と呼ぶに相応しいもので、相当ラウドな楽器の音にいささかも劣ることなく、その雄叫びはスタジオ中に響き渡ったのである。
この時を回想して内藤はこういう。

「いやホンマ、あんなボーカルは初めて聴いたわ。回転絶叫型っちゅーのは、彼のためにある言葉やと思たね。」

 もちろん、他のメンバーも同じ思いであり、これでK大のZEPの名はもらったと、深く頷きあったのだった。

 学祭が近づくにつれバンド練習は峻烈を極め、とうとうオールナイトまで挙行して体調を崩すという、本末転倒的なこともあったが、とにもかくにも本番まで漕ぎつけることが出来た。そして、このとき『田宮次郎's』デビューとなったステージは、奇しくも前年に『石田の顔』がデビューしたのと同じ社学ステージであった。
 このとき演奏されたのは、全てZEPナンバー、それも「アキレス最後の戦い」、「胸いっぱいの愛を(ライブ版)」などという10分を超える大作が含まれていた。例によって観客の大部分は知人友人であったが、大半は義理で観に来たものであり、長ったらしい求道系楽曲に辟易した様子であったという。ただ、怪鳥末崎の心の友にしてこれまた求道民であったギター小僧の太田一郎などごく少数の人間には、『次郎'』sのパフォーマンスは心に残るものとなった。

 前年の『石田の顔』が『求道's』の形としての原点であったとすれば、この年の『田宮次郎's』は精神面、スピリット面での原点といえよう。





1984年〜1985年

〜内藤米国留学、渡辺留年決定〜
激動の1年、そして空白


 大学4回生となった彼らであったが、内藤は語学留学と称して米国へ旅立ち、一方渡辺は不覚にも単位が足りず留年が決定するなど、ドラスチックな年となった。1984年の秋も『次郎's』はベーシストに別の人間を迎えて活動を継続したわけだが、やはり昨年ほどのパワー、エネルギーは感じられなかった。これはメンバーがどうこうというよりも、ひとつ年を取ったということと、2年目ということで前年のような破れかぶれさが薄まっていたためであろうと云われている。なお、付言すれば、留年生渡辺も当然のようにバンドに参加している。

 続く1985年、帰国した内藤は4回生、国内にとどまっていた渡辺は5回生となった。馬場及び櫨山は曲がりなりにも就職し、社会人となった。そして、馬場は帰阪した内藤と入れ替わるようにして赴任先である小田原へ旅立った。すれ違った2人の間に、顔を合わせたくない然るべき事情があったかどうかについては現在でも定かではない。

 この年の学祭シーズンにも4人で『次郎's』が結成されたわけであるが、付言するまでもなく、櫨山など既に社会人となっておるわけで、本来、学祭など関係ないはずであるが、まるで学生の頃と変わりなくバンド活動を続けていたわけであり、まさにアマチャンサラリーマンといえよう。
 ちなみに、彼らは自らの学内だけでは飽きたらず、他の大学、特に自分たちがかつてコーチをしていた女子大などに無理矢理頼み込んで出演させてもらうなどという、公私混同的なことをやっていた。それにしても、たまたま女子大の学祭に来ていた一般客にとっていきなりZEP曲が流れてきた時の驚きは相当なものであったことは想像に難くない。
そして、この年の迷惑な進駐軍ライブが『次郎's』のラストステージとなったのである。

 なお、この年以降しばらくの間、渡辺及び櫨山は『財前五郎's』などという、名前は求道系であるが、中味は求道とは全く相容れない尾崎亜美コピーバンドなどもやっていたわけであるが、『求道's』の系譜とは関係ないので、ここでは割愛させていただく。





1986年〜1997年

〜目的を見失ったさまよえる小羊たち〜
『小田原評定』散発的活動


 当時の好景気のせいか、内藤、渡辺の就職も比較的スムースに決まり、2人は関東配属となった。そしてその後を追うように平成に入って、櫨山も東京に転勤、これで一応4人が関東という、会おうと思えば容易に会える圏内に揃ったわけであるが、何故か会合は中々実現されなかった。

 それでも90年代に入って何度かは4人でスタジオに集まったこともあったが、継続的な活動やライブには至らなかった。この当時手掛けていたのは、The Who、FREE、Queen、Thin Lizzy 、そしてBEATLES等々と、結構バラエティに富んでいた。
 特筆すべきは、Policeの「孤独のメッセージ」で、渡辺が初のメインボーカルを務めたことである。この曲は求道'sの秘蔵コレクションにおいて、重要ナンバーのひとつとなっている。

 96年になって、櫨山は『チョベリバンド』なるB'z曲コピー中心のバンドに加入、ライブ活動も行なっていた。このバンドのギタリスト(S氏)、ベーシスト(G氏)もまた求道民であったのだが、楽曲的にはキーボードの女の子の意向が強く反映され、大部分がB'zであった。一度ライブで、DPの HighwayStar、Burn を取り上げたこともあるが、その時限りであった。なお、後にG氏が転勤となった際、内藤がその穴を埋めてライブを行なっている(99年)。





1998年秋〜1999年冬

〜15年の歳月を経て奇跡の復活!〜
『求道's』始動!


 98年、本人を含めて周りの誰もが予想していなかった櫨山の結婚が決まり、挙式披露ぱーちぃとしてライブハウスを借りてバンド出演するというプランが打ち立てられた。当時継続的に活動していたのは『チョベリバンド』だけであり、かつ、このバンドの一般受けする選曲から考えて、チョベリが出演するのはごく自然なことであったのだが、櫨山の内心では

「果たして、『チョベリバンド』でB'zを演奏するだけでエエんやろか・・・」

との疑問が日を追うごとに大きくなっていった。そして、ある日ついに、彼の中で永らく眠りについていた求道者としての自分自身が目覚め、やはり挙式というオフィシャルな場においてこそ、本当の自分を曝け出すのが求道というものである、との自答を得、これまた永らく音信不通になっていた馬場、内藤、渡辺に連絡を取り、然るべきメンバーにて演奏を執り行いたい旨伝え、快諾を得た。これが現在活動中の『求道's』につながるバンドのスタートであった。

 この時の練習については、まさに荒行と呼ぶに相応しい峻烈極まるものであった。スタジオでのオールナイトこそなかったものの、新婦を交えてカラオケ店にて夜通し寸劇、MCを練習するなど、通常では到底考えられない催しが挙式準備の名の下に強行された。ぱーちぃライブで自ら渋谷のマドンナという汚れ役をやるハメになった新婦はこのとき

「何で自分の式でアホな役をやらねばならんのか?」

と激しく自己に問うていたのであるが、この頃から教祖色を強めていた馬場の指導の下、計画は既に粛々と実行に移されており、今さら抜けるなどとはとても言えない状況となっていたのであった。

 このような厳しい修行が続いていた折り、バンド名を決めるという話になった際に、敬謙な仏教徒である内藤がふと漏らした

「我々はロック道をとことん求める求道者のようだ。」

との一言がメンバーの琴線を激しく揺さぶった。それまで自分たちが何を指向しているのか、どこへ行こうとしているのか漠然としか分かっていなかった彼らであるが、この時初めて道が開かれた思いであった。そこで即座にこの「求道」ということをバンドポリシーにしたのであったが、同時に、求めすぎて極めてしまうと極道'sになってしまうので、適当なところで止めておこうという合意もなされており、いかにもアマチャンの彼ららしい側面が窺える。

 なお、求道という言葉自体はこの時期に初めて認識されたものであるが、便宜上、これ以前の年代にも使用されている。この場合は「いわゆる求道的なもの」としてのニュアンスであることをご了承願いたい。本質は同じである。

 そして迎えた1999年1月30日のぱーちぃ当日、十数年ぶりの人前での演奏であったが、そこは昔取った(取り損ねたという話もある)杵柄でそつなくこなし、ギャグ主体の寸劇・MCも概ね好調であり、かつ、開き直った新婦のマドンナぶりも効を奏して、つつがなく出番をつとめた。彼らとしては初めて、罵声・野次・罵詈雑言の代わりに好意的な拍手をもらい、やや戸惑ったのであった。

 なお、当日はこの後2次会が催され、さらにその後、馬場、内藤、TJITF某支局長、並びに新郎新婦というメンバーにて練習でいつも使っていたカラオケ屋にて、反省・確認・慰労会が夜を徹して催された。2次会ぐらいまでは常識の範囲内であるものの、挙式当日の夜をオールナイト・カラオケにて過ごすなどというのは、世間一般からみれば明らかに常軌を逸脱した行為であるが、求道者としては本来これがあるべき姿であるともいえよう。





1999年春〜夏

〜渡辺休業宣言 苦難乗越え活動継続〜
『求道's』雌伏のとき


 十数余年を経ての再集結・ライブという、まさにジーザス以来の奇跡的な復活を果たした彼らは、この勢いを駆って次なる法要を計画していた。内藤知人バンドとのジョイントライブである。この具体的な目標に向かって、スタジオに入る回数も増えていったわけだが、渡辺にとってはツライ日々が続いていた。仕事が非常に忙しく、週末もほとんど出勤という社奴的な状況で練習も休みがちであった彼に対し、他のメンバーから激励とも脅迫ともつかない電話が相次ぎ、かつ、幼子を抱えた善きパパという家庭人としての立場からもそうそう休日にバンド活動に出歩くわけにいかず、相当参っていたわけである。彼は悩みに悩んだ挙げ句、断腸の思いでバンド活動を休止するという決断を下した。
 他のメンバーは、彼のこの決意表明を非常事態として重く受け止めたわけであるが、自分たちも悲しき宮仕え社畜という同じ身分であるが故に渡辺の立場も十分に理解できることから、これまた断腸の思いで、表面上は暖かく彼を見送ったのである。

 長い年月を経て再結成したのも束の間、セミのようにわずか1シーズンで『求道's』もまた散ってしまうのか、という厚い暗雲が3人の前に垂れ込めたわけだが、逆説的に考えれば、今を去ること20年近く前に組んだ『石田の顔』に戻った、といえるのではないかということに気づいた。いわば、原点中の原点にたち帰ったともいえるわけであり、ならば、出来るところまでやってみるのが求道者としての正しき姿勢であろうとの合意に至り、活動を継続することにしたのである。
ちなみに、馬場はこのとき

「そして3人が残った、ってまるでジェネシスみたいやん。」

とのコメントを残しているが、他の2人は

「そんなエエもんか?」

と冷ややかな視線を送っていた。とにもかくにも、こうして『求道's』は今再びトリオバンドとして、新たなる一歩を踏み出したのであった。

 しかし、こうしてやっとの思いでバンド継続という方針を打ち立てた彼らであったが、ちょっとした連絡すれ違いから、予定していたジョイントライブ計画が流れてしまった。また、彼らは自分たち自身でも出演機会を探し求めていたのだが、時期・費用・場所等々の点で中々決定打となるものがなかったわけである。
 こうして、再結成ライブという記念すべきイベントで幕を開けた99年も、渡辺の休業宣言、法要計画頓挫といった重苦しいムードのまま暮れようとしていたのであった。





1999年秋〜2000年冬

〜捨てる神あれば拾う神あり 2000年の熱い冬〜
横浜法要ミレニアムライブ! with グドガール


 メンバーの1人が抜け、また当面の目的も決まらないまま悶々と日々を過ごしていた彼らは、それでもバンド練習だけは続けており、まさに臥薪嘗胆の様相を呈していた。
ただ、付言すれば、このようないつバンド自体が消滅してしまうやも知れぬ状況にありながら、この年の夏には馬場は新たにギターを購入している。学生時代以来グレコのブギー号(モノリス付)を使用していたが、今度はエピフォンのカジノ号というこれまたマイナーなモデルを入手した。
 本人曰く

「これでジョン・レノンにまた一歩近づいたっちゅーこっちゃ。ま、ダコタハウス前で銃殺されるんはゴメンやけどな。」

とのことであったが、誰の目にもバタヤンこと田端義夫にしか映らなかった。しかし、新品のギターを抱えて嬉しそうにしている彼にそう言える人間は誰もいないのであった。

 さらに付言するならば、このカジノ購入は馬場らしからぬ綿密な計画に基づいて実行されている。この年の夏、例年通り令室並びに令嬢が実家に里帰りしたのであるが、馬場はこれまた例年通り仕事を理由に自宅に止まった。が、ここからが例年とは異なるところで、彼女らが帰省した翌日、このチャンスを待ちかねたように楽器店に赴き、何のためらいもなく購入に至っている。ちなみに、この日は新宿でスタジオ練習の予定であったのだが、彼は最初からギターを持参していなかった。明らかにカジノを買ってスタジオに臨むというスタンスが見えていたのである。
 幸いにして、令室は寛大な女性であったので、帰省から戻ってきて新しいギターを発見しても大事には至らずに済んだが、彼女の心中察するに余りあるところである、と、さすがの内藤・櫨山も語っている。しかし、馬場はそういう周りの空気は一切忖度せず、購入以来カジノ号と同衾しているのであった。

 また、この馬場の蛮勇的行動に触発されたのか、内藤も米国出張の折り、ついに本物のリッケンバッカー4001号を購入した。ポール・マッカートニーに憧れてベースを始めた彼にとって、この楽器を手に入れることは昔からの夢であった。ただ、受験生にありがちな「参考書を買っただけで勉強した気になる」というのと同じく、彼も「楽器を購入しただけで上手くなる」と考えるクチであり、リッケンバッカーを入手した時点でポール・マッカートニーになった積もりでいたのである。周りからは、ポールはポールでもポール牧ではないのか?という声も数多く上がったわけだが、舞い上がっていた彼の耳には届かないのであった。

 こうして、バンドとしてはパッとしないが、楽器的には充実していたそんなある日、内藤が耳寄りな情報を入手してきた。彼の勤務する会社(ここではR社としておく)はいわゆる環境に優しい偽善カンパニーとして有名な大企業であり、従業員も多いため必然的に社内バンドも多かったわけであるが、その中のひとつのバンド(ここではPBとしておく)が、横浜アリーナ(に併設されているサウンドホール)でライブをやるのに対バンを探しているというのである。彼らは渡りに船とばかりにすぐこの話に飛びついた。また、しばらく後にもうひとつバンドも見つかり(ここではVZとしておく)、3バンドでの横浜法要も決定された。
しかし、『求道's』のメンバーは他の2バンドが、プロまたはプロとみなされるレベルであることを、全く知らずにいた。ただ単純に法要の機会を得たことを無邪気に喜んでいたのであった。

 このメンバーでの本格的なライブは大学以来ということで、法要に向けての練習にも熱がこもった。スタジオの時間も長期化し、4時間は当たり前という風になっていた。もっとも、練習後の反省会(という名の飲み会)や確認会(という名のカラオケ)での熱気はスタジオ時を凌駕するほどのものであり、本当にそれほど練習に熱がこもっていたのか?と疑問視する声も多い。

 ところが、日が経つにつれ、対バン2バンドの情報が入ってくるに従って、大変なことが分かってきた。実はPBは全曲オリジナルのCDをリリースするほどの本格派であり、実際にそのサウンドはまさに素人離れしたものだったのである。また、一方のVZについては、実際の音は聴く機会がなかったが、そのキャリア等からみてこちらも相当のツワモノであると拝察された。
 こうした現実を目の前に突きつけられ、本来盛り上がるべき法要前の時期に求道'sの気分は沈んでいった。こんな上手いバンドと一緒に出たら、自分たちは間違いなく笑い者である。かといって、今から急に上手くなるわけもない・・・。彼らは新たな苦悩を抱え込んだのである。

 中でも内藤は地元新横浜でのライブとあって(注:R社はライブ会場の真ん前であった)、会社関係者を始め、知人友人を数多く招待していたため、悩み方も一番大きかった。毎日毎晩、笑い者、負け犬、道化などという数々の屈辱的な言葉がアタマの中を駆け巡る・・・。

(そういえば、学生のころ「サーカスには〜 ピエロが〜♪」などと自作の曲を唄っていたフォークシンガー(ここではA氏としておく)もおったなあ・・・)

などと、意味もなく走馬灯を回していた内藤の脳裏にふとヒラめいたことがあった。

(そうや!カッコよくとか考えるからイカンのや。最初からピエロになったらエエんやんか!コミックバンド路線で行ったらええんや。何でこんな簡単なこと、今まで気ぃつかんかったんやろ。)

 天啓にも似た閃きを得た内藤は、彼本来の路線ともいえる受け狙いに走った。演奏でダメならMCで勝負だ。そう考えた彼は自宅でベースの練習もせずに、MCの原稿を必死で考えた。この情熱を仕事に傾ければもっと出世したであろうし、また、練習に傾ければMC勝負などという搦手に頼らずとも、堂々と演奏で勝負できたであろうに、という建設的な考えはチラとも頭を掠めなかった。こういうところが既に自他ともに認める、負け犬の負け犬たるところであるといえよう。

 なお、付言すれば、この路線を突き進めるために、衣装もそれなりにインパクトのあるものにする必要があると考えた内藤は、渋谷、新宿などの街を徘徊し、とあるいかにも怪しげなアジアンミックス系衣装店に目をつけた。ここは本来女性向けの店であったが、この際そんなことはとやかく言っておれない。そして、言葉巧みに他の2人メンバーを同店に誘い、これまたデパートのベテランマネキンに勝るとも劣らないほどの弁舌でもって、派手、かつ、笑いがとれるような衣装を薦めたのであった。
 しかし、その内藤にしてからが、馬場がふと手にした、黒地に紫系かつスパンコールがちりばめられた、珍妙としか言いようがない一着にはドキリとさせられた。

「このおっさん、まさかこれ着よ言うんちゃうやろな・・・」

 内藤のその不吉な予感は見事に適中し、馬場は涼しい顔をして平然と試着するのであった。そして、内藤の予感通り、その衣装を着用した馬場の姿は、何とも形容し難い、敢えて言うならば、地方の場末のキャバレーで酔客相手にケチな芸を披露する三流大道芸人とでも言うべきものであった。
 しかし、馬場が言うには

「ふーん、デビッド・カッパーフィールドみたいな感じやな。」

 そのセリフを聞いた内藤と櫨山は耳を疑ったが、聞き返してまた同じことを聞かされるのも敵わんと思ったので、敢えて黙っていた。そして、さらに馬場は恐るべきセリフを吐いた。

「これ、色違いで他にもあるし、皆でお揃いで着たらどやろ。」

 ここで内藤はハタと困った。散々人に派手で下卑たものを薦めておきながら、いや自分は・・などと辞退することもならず、さらに悪いことに、内藤は馬場より若干華奢な体格であったため、サイズが合わないために残念ながら着れない、などという言い訳も通用しなかったのである。
 そうした内藤の葛藤を見透かしてか、馬場は妙に嬉しそうに色を選び、緑系であとは自分と同じという一着を内藤に渡した。イヤイヤながら袖を通した内藤は、やはり自分は似合わんから止めておく、というパターンで逃げようとしていた。
が、そこに櫨山から非情なコメントが発せられた。

「おお!エエ感じやん。どことなくプロに見えるし。やっぱりフロントメンには派手に決めてもらわんとね。オレも着たいとこやけど、生憎サイズが合わんしなあ・・・。あー残念。」

などと抜け抜けとのたまう櫨山は、自分がLサイズゆえにその異様な服を着なくて済むことを見越していたのである。
 しかし、苦々しい様子の内藤をニヤニヤしながら見ていた櫨山の背後から、またしても馬場の世にも恐ろしい提案が上がった。振り返った櫨山の目には、馬場・内藤の服に勝るとも劣らないほど妙なベストを、真剣な表情で差し出す馬場の姿が映ったのである。それは黒地に金色の刺繍がされたものであり、着用するまでもなく「孫悟空」というキーワードが容易に思い浮かぶものであった。思わず絶句する櫨山の横合いから今度は内藤がここぞとばかりに、強い調子で発言した。

「おおー!まさにこれしかないって感じやな。ベストやからドラム叩くんも邪魔にならんやろーし。うん、これしかないで。」

 今回は苦々しげに黙り込む櫨山を内藤がニヤつきながら眺める番であった。そして、この2人の熱きバトルに気づいているのかいないのか、馬場は自称カッパーフィールドの衣装を着たまま、これにて一件落着と言わんばかりの満足げな様子で、うんうんと頷くのであった。対照的にあとの2人は泣き笑いの表情だった。
 こうした内面はともかく、第三者的に彼らの様子をみれば、場末の怪しげな無国籍レストランの下っ端店員以外の何者でもなかった。

 こうしてバンドのコンセプトも固まり、ある意味でホッとしていた彼らであったが、ステージングということを考えると、どうも3人だけでは寂しさ、地味さが拭い切れないのではないかと思い始めた。そのため、ゲストを呼んでみてはどうか、というこれまた実にアマチャン的安易な案が出され、即座にバンドの総意を得たのである。こういう方面でのまとまりは抜群の彼らであった。

 ゲストを呼ぶにあたって、熟考に熟考が重ねられ、OS氏、RG氏、UU氏などという各界の重鎮の名前が挙がったのであるが、色々な紆余曲折もあり、参加実現には至らなかった。何よりも、野郎ばかりの3人バンドである『求道's』のむさ苦しさを幾許かなりとも緩和するには、女性、しかも妙齢かつ容姿端麗の女性の方がイイのではないか、というメンバーの勝手な思惑が、その実現を阻んだといって差し支えなかろう。しかし、わざわざこんなバンドと一緒にステージに立とうなどという奇特な女性も中々おらず、折角のこの計画も頓挫しかけていた。
 そんな中、櫨山は知人であるところのマリリン&モンローはどうかと思い至った。彼女たちならば、妙齢かつ容姿端麗という条件は全く問題ないし、かつ、カラオケで聞いたことがあった歌唱力も十分である。この2人に着飾って出てもらえばステージが一気に華やかになってヨイだろう、とこれまた勝手な妄想に耽っていたのである。
 だが、いつまでも思惑や妄想で止まっていては仕方ないので、彼女たちに打診してみたところ、意外にも出演するに吝かではないとの返事がアッサリ返ってきたのであった。

 こうして、まさに美女と野獣的な練習が始まったわけであるが、ライブに出るといっても余興的にステージに上がって、ノッテいればイイと軽く考えていたゲスト陣並びに内藤・櫨山とは正反対に、馬場は参加してもらうからにはそれ相応の役割を、と甚だ真剣に考えていた。ちなみに、『求道's』のハモは全て馬場が考案しており、その複雑怪奇さはしばしばオリジナルをも超えるレベルのものであった。
 その彼が真剣にハモ指導を実施したのだから、バンド活動に慣れていないゲスト2人の戸惑い、怯えは尋常のものではなかった。しかも、馬場は何を考えてか、わざわざ職場の工場(ここではK社O市工場としておく)で「ハリセン」まで製作し、ちょっとでも生温い部分があると、情け容赦なくハリセン攻撃を炸裂させた。このようにして、バンド練習は徐々に体育会系のシゴキの様相を呈していったのである。そのあまりの激しさに女性2人が涙を浮かべることも一度や二度ではなかった。かようにも理不尽な扱いに堪え忍び、自分の役割を全うしたのは、2人の強い責任感がそうさせたものと考えられる。とにかく、そんな彼女たちには、ただ賞賛の声を送るほかない。

 そうこうしているうちに、2000年も大きな問題なく明け、アッという間に1月22日の法要当日を迎えた。ちなみに、この日の関東地方はライブ日和と呼ぶに相応しい青空が広がり、冬にしては穏やかな天候であった。
 が、『求道's』の3人の心中は、天候とは裏腹に穏やかならざるものであった。彼らは法要当日の朝までスタジオ練習を行なうという、悪あがき的対応をとっていたのであるが、朝からの練習ということもあって、この日のスタジオはいつもより出来が悪く、却って自信を喪失してしまった。

 しかし、無情にも時は過ぎ、リハの時間となった。そして、自分たちの番を待つ間、他のバンドの音を聴いてみると、予想を超えるハイレベルであった。こうして、彼らは自分たちのアマチャンぶりを改めて知ることになったのだが、ことここに至っては、どうしようもないのであった。
 3人は冗談で、自分たちの持ち時間を2バンドに献上して自分たちは受付などのスタッッフ業務に徹してもいいなどと言い合っていたが、その目は決して笑っていなかった。ただ、内藤は早い段階でコミックバンドとしての路線を固めておいて正解だった、と己の先見性を自賛していたのであるが、別に何の慰めにもならなかった、と後になって述懐している。

 リハーサルは一応滞りなく終り、後は本番に向けてさらに落ち着かない時間を過ごすことになった。3バンドで順番にやる受付などをやっている間はまだ良かったが、それも終って楽屋入りしたころには、緊張感も最高潮に達していた。
 例の面妖なステージ衣装に着替えた後は、舞台袖から自分たちの前のバンドの演奏を覗いていたのだが、やはり本番とあってリハーサルより格段に素晴らしいものであった。メンバーの間に、こりゃやっぱりヤバイな・・・というムードが漂い、内藤はやたらジュースを飲み、櫨山はやたらタバコを吹かしており、2人してソワソワしていたのだが、馬場はというと、1人差し入れのお菓子なぞ頬張っており、どこか超然とした態度であった。それを見ているうち、他のメンバーの間にもまあ、やるとこまでやって玉砕やな、というバンザイアタックというか人間魚雷というか、一種デカダンともいうべき雰囲気が醸成され、腹も括れたのであった。

 そして、前のバンドが終了し、司会(馬場の会社後輩でありここではOT氏としておく)の紹介とともに、ついに『求道's』のライブが始まったのである。この本番の間のことについては、ほとんど意識が飛んだ状態であり、3人ともよく憶えていないという。ただ、持ち時間は1時間程度あったが実際はやたら短く感じたこと、グドガール登場時は大いに盛り上がったこと、やたらMCが受けて内藤は「してやったり」と思ったこと、などが断片的に記憶に残っているだけであり、気がついたら出番が終っていたという感じであった。
 しかしながら、オーディエンスの感想は概ね好評であり(特にグドガールとMCが良かったという声が多いことには若干釈然としない部分もあったが)、彼らもよーやく胸をなでおろしたのであった。

 こうして、求道'sは念願のオフィシャルデビューも無事果たした。そして、のんびりする間もなく(彼らの言葉を借りれば「次の甲子園はもう始まっている」とのことである)、3月に予定されている次の原宿法要に向けて、新たな活動を開始したのである。今後彼らがコミックバンドとして、どういう活躍を見せてくれるのか、見守っていきたい。



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